
甘酸っぱくてゴロゴロの果肉が入ったぜいたくな苺のジャムと、塩味の効いたバター。
ふかふかのパンをトースターで焼いて、それらをたっぷりと塗りたくる。
よいせ、よいせと手でグラインドしたコーヒー豆は、ちょっぴり古い豆だけれど、それでも挽きたてなら、きっとおいしい。
鎌倉の小さな陶器店で買った群青色のお皿にパンとサラダを乗せて、二人分のコーヒーカップにコーヒーを注ぐ。
それぞれスマホを見たり新聞を読んだりしていて特に会話はないけれども、夫とのこの時間だけは、誰にも邪魔されたくない幸せな日常だ。
……と、ここまでが妄想。というか理想。
実際はダイニングテーブルの上にはたくさんの書類が積み重なっているし、なんなら洗濯して畳み終わった洋服もいくつか散乱している。
パンは食べたくて買ってはみたものの忙しい朝にそんな時間はなくて、冷凍するにも面倒くさくて後回し。
今しがた「忙しい朝」と言ったけれど、原稿の詰め作業に入っている間は朝まで仕事をしていたりするから、実際、午前中は眠っていることがほとんどだ。
夫は本当はこんな生活が嫌になっているのかも知れないけれど、嫌な顔ひとつしない。夫も忙しくしているからお互い「今日もおつかれ…..」って感じでなにも言わないのだけれど、本当のところはどうなんだろう。苺ジャムのパンのことを話したら同意してくれるだろうか。
話を戻すと、わたしはバタバタとした混沌に日々追われながらも、この生活をなかなか楽しんでいる。
やりたいことを仕事にしているのだから文句なんて言ってはいられない。でも時にはやっぱり、苺ジャムとバターをこれでもかと塗りたくったパンをゆっくりと味わいたいと思うことがある。
引っ越して一ヶ月。仕事と身の回りのことに必死で全く気がつかなかったのだけれど、ある日、家の近くに苺の直売所があることに気が付いた。
前回住んでいた家の近くには梨の直売所があって、行きたい行きたいと思ってはいたものの、ついぞ行けずじまいだったことを思い出した。
苺のジャムは自分で作れるし、仕事の合間に行ってみよう。どうせなら贅沢な苺ジャムとパンを食べてやりたい。
そんな思いで足を運んでみると、直売所は閉まっていた。
まだお昼過ぎだったけれど、まぁ、それもそうか。
きっと営業時間が決まっているわけじゃなく、その日収穫した分が売れたらもう終わりなんだろうな、と思った。そして、次はもうちょっと早めに足を運ぼう。とも。
そして昨日、いつもより早起きしてリベンジしてみた。お店の扉は開いていて、お客さんも数名いたのだけれど、表には『close』の文字。
嫌な予感がしつつも、思い切って店員さんに声をかけてみた。
「今日の分はもう終わっちゃいました?」
すると優しそうな顔の女性店員さんが、今日の分はもう終わりなんです、ごめんなさいね。と申し訳なさそうに言う。
まぁ、まぁ、しょうがない。終わってしまったんだからしょうがない。
家がすぐ目の前だと言うこともあってなんだか気恥ずかしくなって、また来ます、とだけ伝えてそそくさと撤退した。
そして今日だ。
今日こそは直売所の苺をゲットしてみせる! 気合を入れて家からすぐの直売所に向かうと、なんと、今度は完全に扉が閉まっている。苺どころかあの優しそうな店員さんさえ見当たらない。
ま、ま、マジで……?
若者は「マジで?」のことを「マ?」とか言うらしいが、
マジで、マ?
恐らく神様は、まだわたしにゴロゴロの苺ジャムとたっぷりのバターをふかふかのパンに乗せて食べることを許してはくださらないのだろう。
たぶんそれを許されているのは、毎日きちんと整頓して、食べきれないパンはちゃんと冷凍して、畳んだ洗濯物はその日のうちに箪笥にしまう人だ。
私のような修行中の身では許されないことなのだ。そうだそうだ。きっとそうだ。
私はその足で最寄りのセブンイレブンに向かい、80円の苺ジャムと100円の6枚切り食パンを買って家に帰るのだった。